推測:アメーバブックスが幻冬舎と組む理由

幻冬舎、サイバーエージェント子会社「アメーバブックス」発行書籍の発売開始

サイバーエージェント社長・藤田晋の『渋谷ではたらく社長の告白』や人気ブログの単行本化『実録鬼嫁日記』などでヒットを飛ばしているアメーバブックスが、自社発売をとりやめて幻冬舎を発売元にするということのようだ。これから出る新刊だけでなく、上記の既刊本もISBNコード等を切り替えるというから、完全に変えてしまうもよう。

たしかに、幻冬舎ライブドアとも提携をして「ライブドアパブリッシング」を作り、ホリエモンの本をはじめとした「ブログ発出版」をすでに手がけている。ベストセラーも多いし全国の主要書店に顔が利く。

だが、あくまでもここからは推測にすぎないが、明らかにこれは「取次会社が出版社と結ぶ取引条件の差」が背景にあるといえよう。以下、憶測のまま、出版業界の一般的な事例をもって説明してみることにする。


書籍を全国に流通させるためには、出版社と取次(トーハン、日販など)との間で出版契約を結ばなければいけない。通常の大手出版社の場合、大体定価の70%くらいが取次への掛け率(正味)になる。定価1000円の本を10000部卸すのだったら、出版社の売上金額はざっくり言えば700万円になる。

しかし、増え続ける新興出版社に対して、取次各社は同じような契約を結ぶことをしない。噂に聞くと、ある新規の出版社が大手取次と販売契約を結ぼうとすると、既存の大手に比べて2〜3%少ない正味(例えば67%〜68%)を要求されてしまう。この時点で数十万円の差が出てしまう。さらには「初回の流通時だけ5〜6%の歩戻し」といった条件がオプションでついてくることがある。そうなるとその時点で、10%近い差がついてしまうではないか。

さらには、大手出版社は本を卸すと即取次より支払いがあるのに対し、新規のところだと支払いは6か月後になってしまったりする。社員一人でコツコツやろうとしている小さい出版社にとって、本を作りました、書店に流通させました、まではいいけど、支払いは半年後なんていったら会社の運転資金を捻出するのも大変だ。

こういった「格差」があるうえに、実際書籍の販売元となると、物流倉庫をどうするか、書店からの注文電話に誰が対応するのか、返品はどこにどうするのか、書店への営業は・・・といった問題が次々と生じてくる。アメーバブックスも、これらの体制を作りきれなかった、あるいは作ってみたら意外に大変だった、という状態だったのではないだろうか。


業界平均の返品率が40%程度といわれている現在、新興出版社が1000部の本を10000部作って、半年後に40%の返品が来たと仮定すると、
 ○出庫:1000円×10000部×(0.67-0.05)=620万円
 ○返品:1000円×4000部×0.67=268万円
  →トータル352万円の売り上げ、ということになってしまう。しかもここから本の印刷代、著者印税、倉庫管理費、人件費・・・等を抜いていくのだ。こりゃ大変。


だったら、ムリして新規の出版社を立ち上げるくらいなら、大手の出版社に「手数料わたすから10000部まいてくださいよー」と委託してしまうほうが楽ではないか、という話になってくるわけだ。例えば、大手A出版社が新興B社の本を代わりに委託配本したとすると、
 ○出庫:1000円×10000部×0.7=700万円
 ○返品:1000円×4000部×0.7=280万円
  →トータル420万円の売上となる。
ここから、大手A出版社が委託された10000部に対して例えば手数料10%を差し引くとすると、
 ○手数料精算:420万円−(1000円×10000部×0.1)=320万円
この金額がB出版社のほうに入るわけだ。上記に比べると若干実入りが少なくなるが、営業や電話受注の体制はすでにA社の中にある。さらには支払い時期も違う・・・となると、B社は自分でイチからやるより大手版元に預けたほうがラクかな、って思うのも無理はなかろう。


よく「発行元」と「発売元」が別になっていて、発行元が聞いたことのない会社で発売元が大手出版社だった場合、こういう「受託販売契約」を行っているのではないか、と推測されよう。今回のアメーバブックスと幻冬舎の契約というのも、同じような感じなんじゃないかな、と私は思っているのだがどうだろうか。


もちろん、上記の話は乱暴な推計であり、実際には掛け率も違えば他にこまごまかかってる費用もあるけど、考え方としてはこれでいいんじゃないかと。そうすると、「机と電話一本で誰でも作れる出版社」なんてのんびりしたことは、すでに言ってられない時代なのかもしれない。既得権益を勝ち取った大手版元だけが出版流通の世界では幅を利かせ、小さいところはもう大手の傘に入るか、一人で悪条件に立ち向かうか・・・あるいは取次を通さず書店さんと直でやるか、という選択肢を迫られる、ということになるのだ。

 

出版「村」から黙殺されるベストセラーたち。

以前本家のほうでも書いたとおり、『もっと、生きたい・・・』のことが気になって仕方がないのです。というわけでちょっとまとめてみました。




 出勤前に何げなく朝のニュース番組を見ていたら、『もっと、生きたい・・・』(Yoshi/スターツ出版)という本のCMが流れた。シリーズ270万部を突破した『Deep Love』著者の最新作である。書籍単体でテレビCMを打つというのは珍しい・・・と思っていたら、最後にこういうキャッチコピーが流れた。

「本を読まない人たちのベストセラー」

 たしかに、Yoshiという著者は書評界でまったく相手にされていない。ケータイサイトでの連載小説ということもあってか、急転直下で幾分強引気味なストーリー展開、ぶつ切りの文体など、その何もかもが新しすぎる。読書家の方々が眉をひそめるのもわからないではない。しかし、「読書離れが著しい」と言われる若者の間で、Yoshiの小説は大変な人気となっている。そのことは疑いようがない事実だ。

 何十万人という読者をつかんでいるが、出版ギョーカイ内ではどこか軽んじられる存在・・・そんな作家はたくさんいる。文芸評論家の斎藤美奈子氏が自著『趣味は読書。』で述べるとおり、そもそも「本を読む人」自体が、「人口の一割にも満たない」少数民族だ。さらにその中で無数の「村」が存在しており、村同士の交流は意外に少ない。

単行本の初版発行部数は大手出版社の文芸書でも数千部程度。5万部、10万部も出せれば、そのジャンルの中では十分「ベストセラー」と言われる。しかし、テレビだと、個人視聴率1%は約39万6000人に当たるという。メディア特性の違いとは言え、テレビに比べれば、出版界がはしゃぐ数字というのは誤差程度のものでしかない。

つい先日、実家の母親が上大岡トメ『キッパリ!』と日野原重明『生きかた上手』を「面白い本を見つけたわ」と買っていた。出版界にいると「何を今さら」な両書だが、逆にここまで広がって初めて「世間的にはベストセラー」ということなのだろう。

閉じこもりがちな出版「村」の評価がどうあれ、Yoshiは間違いなく垣根を超え、新たな土地を広げた。『もっと、生きたい・・・』で、さらなる開墾が行われることを期待したい。

「10代向け市場」の難しさ。

断片的には再三書いてることなんですが、機会もあったのでちょっとまとめてみました。


この冬、10代読者をターゲットにした注目シリーズの創刊が続いた。一つが筑摩書房の「ちくまプリマー新書」。そしてもう一つが理論社の「よりみちパン!セ」だ。前者は橋本治氏を企画主幹にすえ、テレビ等でもおなじみの名編集者・松田哲夫が自ら指揮を執る。ポップな装丁もあいまって非常に売れ行きがよいもようだ。後者は創刊というにはひっそりとスタートしたものの、重松清や、養老孟司リリー・フランキーという硬軟取り混ぜた意欲的な書き手をそろえ、じわじわとファンを伸ばしている。
両者とも大きめに組まれた活字に、厚手の紙を使用。文章も平易に徹しているので、どの本もすらすら読めて面白い。どの本も、中心ターゲットである10代だけでなく、大人も相当数購入しているようだ。


ただ、現在これらのシリーズを取り巻く最大の問題がある。書店に置き場が見当たらないのだ。この本は「児童書」なのか「文芸」なのか。「新書」の棚に置いては大人しか目に留めてもらえないだろう。読者層を考えるなら現在流行のライトノベルやコミックの付近に置くべきだが、趣があまりに違う。
知り合いの書店員に聞くと、「ある程度巻数がたまってきたらフェアでもやりますが・・・それまでは内容にあわせていろんな棚でバラバラに置くしかないですね」とのこと。事実、「よりみちパン!セ」で一番売れているだろう、みうらじゅん『正しい保健体育』は、それ単体でサブカル関係の棚に置かれていることが多い。某出版社に籍を置く私は「こういう本っていいですよね」と上司に言ってみたら、やはり「いいけど・・・シリーズにして、どこで売ってもらうの?」という反応だった。まだまだそういう状態だ。


いま、出版業界は「朝の読書運動」推進などを通して、読書教育に力を入れている。ハリーポッターのような、子供も大人も読める本のベストセラーも出た。さて、では次に10代の彼らが読むべき本は、書店のどこにあるのか。「児童書」と「一般書」の間をつなぐ本は必要だ。しかし、それはどこで探せばいいのか。これらのシリーズ創刊がきっかけとなって、本の面白さに気づき始めた読者に向けた入門+α的な売り場ができてくれば、読書人口の底上げ化にもつながってくるのではないかと思うのだが。

「読者の代表」としての書店員。メモ書き。

まだ思考中。まとまっておりません・・・。まとまった原稿は別のところに載せようかと。


先月のINCで某書店店長が怒っていた。新刊のダンボールを開けたら、中から「全国の書店員が熱狂!」とデカデカと書かれたオビが着いており(ちなみに商品はコレ)「知らねーよ、オレは熱狂してねーよ!」と怒った店長は版元にイヤミの電話をかけたそうだ。ま、たしかにこの本、新人作家ながら出版社側も力が入っていて、簡易製本したものを相当いろんな書店などに配り、あらかじめ感想を募っていた。それなので発売前に数多くの感想を手に入れていたという次第だが。


最近、新聞広告を見ていると「書店員のコメント」が多いことに気づくだろう。私も意図的に書店から感想を集めたことがある。今や書店員絶賛のコメントは、映画における「全米No.1!」「ピーコも絶賛!」と同じくらい当たり前の宣伝文句となっているのだ。書評家の権威が落ち、「朝日新聞に載ったから何万部増刷」なんてことはありえなくなってきた現在。


しかし、ただでさえ忙しい書店員――しかも、コメントを求められるのは名の通った大型書店ばかりなので激務もひとしおだ――にコメントを求めるゲラが殺到し、すべてに目を通すこともかなわない、という状態が起こっているのも事実だ。私もあるミリオンセラーを演出したということで有名な文芸書担当の人に推薦コメントをお願いしようとしたら「いま順番3社待ち」といわれたことがある。書店員としての技能と、味のある推薦コメントを書ける技能は別だ。出版社もこぞって「うまい人」に推薦文を頼むようになる。かくして、一部の才能ある有名な人が<プロの書店員コメンテーター>としてますます有名になっていく。


大きな書店では一日に100種類以上の新刊が入荷されてくる。すべてに愛情持って、内容を見て売ることなんかできやしない。「書店の仕事をするようになってから読書量が減った」とは多くの書店員が口にする台詞。それでも自分は、「読者の代表」「本に知識のある人間」として、書店員という存在を信じたいのだが。今やアルバイトの比率が一気に増えた圧倒的多数のフツーの書店員にそれを期待するのは無理なことなのか。


「本」という商品ほど事前のマーケティングが行われないものも珍しい。委託販売がまかり通るこの業界ならではだろうが、基本的に出版社は「初回は見本配本」という意識を捨てきれない。初回売れたり注文が来て初めて「あぁこの商品はイケるな」と判断して宣伝を打ったり重版して注文書を作ったりする。何もしなくてもある程度の本が売れてる時代はそれでもよかったんだろうが、ようやく出版社も「発売前に種まきしたり調査したりする」ことが重要だということになってきた。その矛先としては、現在オカネもかからない(評論家に比べると謝礼だって少なくすむだろうから)書店員に向かっている。


ただでさえ「ほしい商品が手に入らない」書店、本来重要なシゴトは正確かつ迅速な商品調達であるべきなのは間違いない。そんな中でPOP書きやコメント作成といった側面ばかりが目立つからという理由で持ち上げられる、出版社も「あの店はPOPを書くからイイ店だ」「あの店はPOPを書いてくれないからやる気ない」なんてことを言う。「本が売れない」時代、本質的な問題は書店員のやる気や店頭装飾能力のなさにあるのだろうか。


そういえば朝の情報番組「とくダネ!」で小倉智明が褒めた本やCDはバカ売れする、という現象が相次いだおかげで、今や番組宛、小倉宛には多種多様な新刊が送りつけられているという話を聞いたことがある。こちらにもか。

アマゾンで本を売りたければ「オビよりもサブタイトル」にこだわれ!?

オンライン書店の普及に伴い、書籍を作るうえでより重要となってくるのは、オビコピーよりもサブタイトルなのではないか、ということにふと気づいた。もしかしたらこれも「今更〜論」な話・・・かもしれないが。


オビがあまり重要ではない理由は、以下の点による。

  • オンライン書店ではオビなしの表紙画像が掲載されることが多いため読むことができない。
  • オビ文は内容紹介のところに入れる場合が多いが、個別商品画面で下のほうまでスクロールさせないと読むことができない


「宣伝したいことはオビで表現するよ。そのためのオビだろう」と言うのはごもっともなのだが、ネットの場合はそれすら見落とされてしまう危険性が高くなるのだ。


一方サブタイトルの場合、オンライン書店では商品名として一緒に掲載される。これは検索結果やランキングのページを開いてもその場で閲覧できる。個別画面でも当たり前だが一番上に太字で書かれる。このほうが、伝えたいキャッチコピーをより具体的に見せることができる。この「サブタイトル重視傾向」が、今はより強まっているのではないだろうか。


一例を挙げてみると、同じ著者、同じような本タイトルであってもこの本この本では、ずいぶん第一印象が違うのではないだろうか。後者にもちゃんとサブタイトルぽい言葉は入っているが、書誌情報を作るうえで外してしまったのだろう。もったいない。


私自身、抽象的、ぴんと来ないタイトルをつけた本に対して、営業の立場から担当編集者に「タイトルを変えてくれないか」と頼むことがある。そのとき編集者は「タイトルは著者が決めるから」「イメージがあるから」と言って拒むことが多い。それだったらせめてサブタイトルでベタな売り文句を入れてはもらえまいか。その一方で営業のほうは、オンライン書店などに書誌情報をあげるときに、タイトル欄により細心の注意を払うべきではないか、ということを考えさせられた。

「今更オタク論」分科会

知人のサイトと掲示板で「今更オタク論」というのが展開されていて、たしかに今更だなぁと思いながらも、やはり読んでると口を出したくなってきた次第でして。だだっと記してみたいと思います。

★★★★★★★★★★★★★★★★

最近はさすがに「アキバ系カルチャー」が数多く報じられたり、「電車男」がヒットになったりで「オタク」という単語が広く使われるようになりましたが、その意味は人によってまちまち。そんな中で私は以前「新しいタイプのオタクカルチャー雑誌」を作りたいと悩みもがいていたもので、あれこれ理屈をこねてました。

オタクとは「何かの趣味へ熱狂的に取り組むが、他文化を持つ人とのコミュニケーションがうまく取れない人」だと思っています。その「何かの趣味」が多くの場合はアキハバラ系カルチャー
(ゲーム・アニメ・漫画・フィギュア、パソコンetc.)で語られることが多いですが、実際のところは健康オタクや美容オタク、ファッションオタクなどなどジャンルはとにかくいくらでも存在します。

誰しも、語りだすと、あるいは没頭すると止まらない趣味というのを持っていると思いますが、そこで現実世界に帰ってこれなくなったり周囲の目を気にしなくなったりすると、それは「オタク」という部類に入るのでしょう。


「オタク」とはある特定のカルチャーを示しているようでいて、
実際はある特定の「ふるまい」というか「性格」をさしているのです。


> 一般的に遊びとして偏見のある趣味に没頭している人は女性にモテない所以


掲示板にあったこのコメントについて。
異性との交際はまさに「他の文化を持つ人との交流」です。オタク的な人がモテないのでなく、モテない言動をとる人のことをみんな「オタクっぽい」というのです。ゲームやアニメが大好きで恋人や妻子が居る人は山ほどいると思います。彼らの日常を見ても、きっと「オタクっぽい」とは思わないでしょう。


また、「ビジネスマン」という種族は、オタクでないように見えます。なぜなら、ビジネスとはまさに「多種族との共同生活、交渉」をしなければいけない場所だからです。そこでは「オタク的なふるまい」は許されません。

昼間は健康的な「ビジネスマン」を演じている人が、ちょっと飲みにいって趣味の話をふるとレトロゲームとオーディオの話を延々と語りだすのを見ると(実際に取引先にいました)「キミ、オタクだねぇ(笑)」とその場では言いますが、決してその人は本当のオタクではないです。なぜならその人は相手と状況を見ながら交流をしているから。


まぁ、たしかに「オタク的性格」が強い人は、異性との交流ができない、しかし当然性欲はあるので、異性と交流しないで性欲を開放しようという方向に向かう、そのためアイドルやAV、二次元美少女に向かってしまう。その結果、アイドルやアニメ・ゲームというカルチャーに「オタク的性格」の人が自然と集まってしまう、ということは考えられるでしょう。

「アニメやゲームを好むからオタクになる」なのではなく、「オタクだからアニメやゲームに集まる」というのが正確。「オタク的性格」と「オタク的カルチャー」に何かしらの因果関係はあるかもしれませんが相関関係は薄い、と思われます。

まぁ、無理やりまとめの一言を言うならば、「話し上手」より「聞き上手」を目指したほうが、オタクじゃなく見えるようになりますよ、ってことでご勘弁を。

青山ブックセンター倒産。

新文化速報:青山ブックセンター倒産

本編にも書いたとおり、私はちょうど何も知らずに17時前後くらいに六本木店の前を歩いて「あぁAノさんとかMロさんいるかなー挨拶してこよー」と思って立ち寄ろうとしたら、まさにそのAノさんが「閉店のお知らせ」という紙を入口に貼っていてまたタチの悪い・・・と思ったら本当で死ぬほど驚いた、という状況です。閉店の瞬間を見てしまったというのは、一方でジャーナリスト魂燃え上がるものの、はっきり言って悲しさと驚きのほうがずっと上です。個人的にはABCの棚はそんなに好きじゃなかったけど、いわゆる「首都圏の若い本好き」のココロをつかんでいた書店としては十分知名度があったでしょう。

★この話を聞いて今日の呑み会はじめいろんな人にABC倒産の話をしたら、みんな一様に驚いていました。それと同時に、判で押したように「やっぱり洋書の写真集を立ち読みばかりしないでちゃんと買ってればよかった・・・」という後悔のコメントを聞けたのが面白かったです。やっぱり、ABCはいい意味でも悪い意味でもアート系な人たちの「図書館」になっていたのではないかと。

★他にも池袋では芳林堂書店に続き新榮堂書店が潰れるなど、あちこちで倒産情報が流れるようになってきました。